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代表・蔵野の人物像に迫る!

2025.09.26

こんにちは。広報担当の藤田です!

 

これまで、社内の雰囲気やメンバーの人柄など、さまざまな広報記事をお届けしてきましたが

「社長ってどんな人なんだろう?」

と気になっている方も多いのではないでしょうか?

 

やはり「どんな人が会社をつくっているのか?」は
hapeに興味を持ってくださっている皆さんにとって、とても大きな関心ごとのひとつだと思います。

 

そこで今回は、代表・蔵野の仕事観やキャラクターにせまるべく、
蔵野の生い立ちからhapeの起業秘話まで余すことなくお伝えしたいと思います!

 

採用広報チームの藤田・長谷川・柏の3名で、インタビュー形式でお届けします。

 

この記事を通して「hapeの社長の雰囲気がどんなものなのか」と少しでも感じていただけたら嬉しいです。

それでは、さっそくいってみましょう!

 


1.幼少期から高校時代までの歩み

2.大学での経験と就職のきっかけ

3.人材業界で掴んだ成果と、起業への挑戦


 

1.幼少期から高校時代までの歩み

 

藤田:本日はよろしくお願いします!
まず、蔵野さんのご出身と幼少期について教えてください。

 

蔵野:出身は東京の板橋区。男三人兄弟の真ん中で、兄弟同士や家族をつなぐ役目だったかな。三兄弟の中では一番明るくて、それなりに気が遣えるタイプだったから、幼少期はあまり親に怒られることもなかったかな。大体怒られるのは一番下の弟だった(笑)

 

藤田:イメージと違ってました!!勝手ながらもう少しガキ大将的な感じだったのかなと思ってました。

 

蔵野:ガキ大将ではなかったけど、おせっかいやきで面倒見は良かったほうだと思うよ。弟の面倒もよく見てたしね。

 

藤田:小学校くらいになるとどんな感じだったんですか?

 

蔵野:小学生のときは、もしかしたらhapeのみんなは想像つくかもしれないけど、クラスで一番給食を食べるのが早いお調子者タイプ。小学校の時って、給食食べるのとか誰が一番早いか競争しなかった?

 

藤田:しました!牛乳とか誰が一番飲むの早いかとか!

 

蔵野:そうそう!それで誰よりも早く食べることにプライドを持っているような男の子だったかな(笑)
ただね、あまりに早く食べすぎて、パンをのどに詰まらせたことがあって、、、
それ以来、パサパサ系の食べ物が苦手になっちゃって。お菓子とかパンとかもどちらかというと、しっとり系の方が好きかな。

 

藤田:ちなみに、スポーツは何かされていたんですか?

 

蔵野:中学は野球部。中1のときから試合に出れたり、自分で言うのもなんだけど、それなりに上手だったと思うよ。でも中2の時、ちょうど3年生が引退して代替わりするくらいの時に肘を剥離骨折しちゃってさ。結構な期間、練習もできずに球拾いとかして棒に振っちゃったんだよね。ピッチャーやってたんだけど、そこからポジションも取られちゃって、サードやレフトにまわされちゃってさ。

それで、今でも後悔しているんだけど、当時、ふてくされて「野球は中学まででいいや」と思っちゃって、高校ではやらなかった。続けていればよかったな、と今でも思ってるよ。

でも、体を動かすのは好きだから、高校ではバスケ部に入った。某バスケ漫画の影響もあって、友達に「一緒にやろう」と誘われたんだよね。誘ってくれた友達はもともと経験者で上手かったけど、自分は未経験。ほんとに最初はボールが手につかなくて、左手のドリブルもできなかった(笑)だからずっと補欠だった・・・。でも、3年間続けたよ。

 

藤田:その状況でなぜ続けられたんですか?

 

蔵野:やっぱり意外に途中で辞めるのが嫌だったんだよね。あとは友達もいたし、そもそもスポーツ好きだったからね。最終的には左手でもドリブルできるようになったし(笑)最後の試合も出られた。レギュラーにはなれなかったけどね。まあ、想像つかないかもしれないけど、スポーツ少年だったよ。

 

藤田:スポーツができて明るい、イメージ通りでした!学級委員や生徒会もやっていたんですか?

 

蔵野:学級委員か、、、記憶が曖昧だけど、やってたかもしれない。そう考えると昔は目立ちたがり屋だったよね。でも、あがり症っていう相反する感じ。そう考えると今でいう陽キャだったかもしれないね(笑)

 

2.大学での経験と就職のきっかけ

 

藤田:蔵野さんって今はそんなに前に出たくないってよくおっしゃってますよね?いつからそう思うようになったんですか?

 

蔵野:それはね、、大学生になってから性格が変わったかもしれない。
大学生のときにカラオケ店でバイトをしていて。店外でお客さんを呼び込む客引きみたいなことをしていたんだけどさ、それなりに活躍して重要な場所を任されていたんだよね。学生という立場でありながら、すごく一生懸命にやってたんだけどさ、ある年末に部屋が全然空いてなくて、4名席に8名を通したことがあったんだよね。お客さんには事前に「本当に狭いですよ」と伝えた上でご案内したんだけど、帰ってきたお客さんにすごく怒られたことがあって「そんなんじゃ社会で通用しないぞ!」とかさんざん言われたんだよね。

当時学生で、チャラチャラした感じだったこともあったし、面と向かってそんな感じで言われてからさ。勝手に自分の中で作り上げたサラリーマン像と自分を照らし合わせて、「自分って社会に合わないのかな」と思うようになったりしてさ。そうやって段々と前に出るのが億劫になったのかもしれない。間違いなく意識高い系ではなかったよ。でも、仕事自体はその頃から突き詰めてやってたよ。

 

藤田:ちなみに、大学は理系ですよね!なぜ理系の大学に進んだのですか?

 

蔵野:数学と物理が好きだったから。特に数学はそこそこできたほうかな。数学ってゲームみたいで、昔から問題を解くのが好きだった。だから今も子どもの宿題(算数)を解くのはけっこう好きだね。

 

藤田:数学が好きだったりするところが、今のデータを見たりするところにつながってるんですかね?

 

蔵野:そうかもしれない。確かに昔から野球のデータとか見るのは好きだったしね。

 

藤田:ちなみに大学は芝浦工業ですが、なぜ芝浦を選ばれたんですか?

 

蔵野:ほかにも選択肢はあったんだけど、技術屋の父親からも「理系に進むなら芝浦の方がいい」って勧められてたし、就職率も高いから芝浦に行った感じかな。ただ理系で男ばかりだったから、華のキャンパスライフはすぐ諦めて、バイトに明け暮れていたよ。華やかな学生生活とはかけ離れていたね。
意外かもしれないけど、昔からモノ作りが好きで手も器用だったんだよね。母親は絵描きで、小さい頃は美術館によく連れて行ってもらってた。だから絵も好きだし、字もそこそこ上手い。意外と芸術肌の一面もあるんです(笑)

 

藤田:そこから技術系や芸術系の道には進まなかったんですか?

 

蔵野:それは全然考えてなかった。新卒の時、やりたかったのはコンサルティング!

 

藤田:なぜコンサルティングだったんですか?蔵野さんは数字に強いイメージがありますが、当時から数字が好きだからですか?

 

蔵野:いや、単純にかっこよくて、お金も稼げそうなイメージだったから(笑)
力もつきそうだと思ったし。でも、新卒で入社したのは人材会社。お恥ずかしながら、仕事内容に「コンサルティング営業」って書いてあって、当時、無知な自分は、この会社なら「コンサルティングができる」みたいな浅い考えだったよ(苦笑)

あと、内定後に某高級焼き肉店に連れて行ってもらって、初めて高級焼き肉を食べた。それが美味しくて、「この会社に入ったらこういうこといっぱいできるのかな」と思って入社を決めたんだよね。お恥ずかしい昔話です。でも、結局新卒で入社した会社を半年で辞めちゃったんだよね。

 

藤田:え!それはなぜですか?

 

蔵野:大阪転勤を打診されたことがきっかけで退職したんだよね。当時、母親を介護しながら働いていてさ。さっき話した通り自分は家族をつなぐ役割だったから、自分が大阪に行ってしまったら大変なことになると思ってやむなく辞めることになったんだよね。

ただ、辞めるときにビジネススキルがほとんど身についてなくて、パソコンもろくにできなかった。これはさすがにやばいと思って、退職するまでの30日間は1日も休まずに働いたよ。

家にパソコンがなくて触れる機会もなかったから、その期間に必死で勉強したね。同期には辞めることを伝えてなかったから、休まず必死に働いていたせいか、モチベーションがめちゃくちゃ高いって思われてた。(笑)

その後、退職してそのままの勢いで、2社目も人材業界の会社に入社した感じ。

 

藤田:なぜ、また人材業界を選んだのですか?

 

蔵野:前職はすぐ辞めることになってしまったから人材業界で続きをやりたかったのと、将来起業したかったから。2社目はいろんなビジネスモデルを知れるところがいいと思ったし、社長相手に営業できる環境も良くて入社したかな。あと、選考をいくつか受けていて、一番最初に内定の連絡がきたから(笑)

 

3.人材業界で掴んだ成果と、起業への挑戦

 

藤田:今の蔵野さんからは想像できない姿ですね…。どうやってここから力をつけていったのですか?

 

蔵野:自分のビジネス人生が本格的に始まったのは23歳。母親が特別養護老人ホームに入ったときからだね。これは2社目に入社して2か月目の出来事。父親と一緒に母親を介護していたんだけど、父が自転車で転倒して複雑骨折してしまったんだよね。誰も母親をつきっきりで見られなくなってしまったときに、当時通っていたデイサービスの施設に空きが出て、そこに入ることができたんだよね。それまでは介護しながら仕事をしていたんだけど、そこからようやく仕事に集中できるようになって、ビジネス人生がスタートした感じだね。

それまでは自分も介護で毎日寝不足だったし、父親も疲弊していて、家の中はずっと不安だらけだった。それが落ち着いて、ようやく全力で仕事に向き合えるようになったんだよね。そこからはもう、水を得た魚のようにとにかく働いた。めちゃくちゃコミットしたよ。

 

藤田:でも、そこから一気に気持ちを切り替えられるものなんですね?

 

蔵野:将来は起業したいと思っていたからね。不安がなくなって、一気に無敵モードになった。当時は仕事が楽しかったし、ほとんど寝ずに仕事してたよ。

まじめに働いて、しっかり成果を出せば、ちゃんとお金がもらえるということに改めて気づいたし、お客様からも喜ばれるしね。周りからも「すごい!」って言われることも増えて、どんどん良い方向に変わっていったね。

 

藤田:仕事を楽しめていたんですね!

 

蔵野:そうだね。あとは、周りが自分を受け入れてくれたのも大きかった。やんちゃだった自分を受け入れてもらえたことが嬉しかった。最初は「全員ライバルだ!」って気持ちで尖って働いてたんだけど、段々と「みんなのために」という気持ちに変わっていったんだよね。こんな自分なのに周りがサポートしてくれるから、自分も周りのために頑張ろうと自然に思えるようになってたかな。

その結果、入社1年目でいきなりトップセールスになった。しかも、2位の人に倍近くの差をつけて、その記録は今も抜かれていないと思う。

 

藤田:それはどうやって達成したんですか?量なのか、コミット力なのか?

 

蔵野:量と質の両方だね。当時はめちゃくちゃ仕事しまくって量もたくさんやったけど、当時、隣の席に寝ずに働き続ける先輩がいて、「体力勝負では勝てない」と思ったんだよね。そこから量だけじゃなくて質も考えるようになったんだよね。そこで学んだのがマーケティングだった。当時、ダイレクトレスポンスマーケティングの第一人者である神田昌典先生の本を読み漁っては、実践の繰り返しだった。ここが自分のノウハウの軸にもなってるよ。

そこから学んだことを実践して、自分に問い合わせが集まる仕組みを作ったんだよね。

DM作成はもちろんのこと、管理部門に頼んで請求書に自分の連絡先が載っているチラシを同封したり、会社でやってるセミナーの会場にポスターを自作して「お問い合わせは蔵野まで」と書いて貼ったり。お客様の声の小冊子を作るプロジェクトを発案しては、小冊子の最後のページにあるお問い合わせ欄は、もちろん蔵野まで(笑)自然に自分に問い合わせが集まる仕組みを作った感じ。他の人が一生懸命テレアポをしている中、自分は周囲と異なる営業活動を行っていたから、当たり前だけど、圧倒的な1位になれた。

 

藤田:でも、それだけノウハウがあったら、他の人にもマネされませんでしたか?

 

蔵野:されなかったね。みんなできなかったし。マーケティング知識だけでなく、IllustratorやPhotoshopもできたし、自分のアイデアを自分で形にできるスキルは、当時の同僚にはなかった感じかな。だから今でもデザインもできたりするんだよ。

その後、1年目でマネージャーになって、半年後には大阪支店を立ち上げたいと手をあげることになった。立ち上げの時ってまずはお客様を開拓するところからスタートするんだけど、なかなかアポがとれないんだよね。でも、ダイレクトレスポンスマーケティングのノウハウがあったから、立ち上げたときにはいきなり1か月先までアポが埋まってて、ロケットスタートでうまくいった(笑)

ただ、その直後にリーマンショックで一気に会社全体が落ち込んでしまって。当時の事業部長も辞めて、会社は赤字が続いてしまってた。それで、誰が立て直すんだとなったとき、「危なっかしいけど勢いがあるやつがいる」と思われたのかな。自分が事業部長に任命されたんだよね。それで大阪から東京に戻り、26歳という若さで執行役員になった。

それからは、このままだと会社が潰れてしまうという状態から、2か月で立て直すことができた。でもやったのはマーケティング機能を整えただけ。
リーマンショック時は本当に顧客はほとんどいなくなったんだけど、とにかく新しい顧客を開拓する仕組みをつくったんだよね。それがうまくいって会社を立て直すことができた。

こういうと簡単な感じに聞こえるかもしれないけど、事業を立て直すまでの期間は、毎日PDCAを高速で回していたから、ほぼ寝ずに働いてたよ(笑)貴重な新規商談は全て同行してたし、並行して毎日販促物を作っては、実践、検証、改善の繰り返しだった。当時、マネジメントと営業活動を並行しながら、1か月で30種類の販促物を一人で作った感じ。会社に泊まったり、深夜2時に同僚とラーメンに行ったり。そんな生活だったよ。

その後は横浜、大宮、名古屋の支店を立ち上げたり、事業部統合したり、いくつか新規事業を作ったり。

 

藤田:その経験を経て、hapeを起業されたんですね!
でもそこまで実績を出したら、そのまま続けようとは思わなかったんですか?

 

蔵野:思わなかった。もともと「30歳で起業する」と自分にコミットメントしていたから。それを破ったら自分に自信が持てなくなるし、嘘をつくことになる。それだけは嫌だった。だから30歳で起業したんだよ。

 

長谷川:では、ここからはhapeを立ち上げてからのお話をお聞きしたいです!

:どんな人と一緒に働きたいか、求職者へのメッセージなども是非!

 

藤田:あ、皆さま。すみません…
盛り上がりすぎて、インタビューの予定時間を過ぎてしまいました!
続きはまた次回、開催できればと思います💦

蔵野さん、本日はありがとうございました!

 


 

ということで、hapeを立ち上げてからのお話は、また次回のお楽しみ。

 

社員もあまり知らないようなことを聞けて、私もとても新鮮でした!

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。
代表・蔵野の人物像が少しでも伝わっていたら嬉しいです。

 

「ちょっと話を聞いてみたいかも」
「hapeで働いてみたいな」

 

そんなふうに感じていただけた方は、ぜひお気軽にご連絡ください!
皆さまからのご応募、心よりお待ちしております!

 

以上、広報担当の藤田からでした!

 

この記事を書いた人:藤田大輝

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